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2010年1月31日 顕現節第四主日礼拝 「先入観ではなく、イエスの愛に頼って」 安達均氏

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なし 2010年1月31日 顕現節第四主日礼拝 「先入観ではなく、イエスの愛に頼って」 安達均氏

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010-2-1 9:38 | 最終変更
admin003  コンテンツ管理者   投稿数: 17
「先入観ではなく、イエスの愛に頼って」 
Luke 4:31-30 
安達 均


人間関係での悩み:

どうか両手を胸に当てて、自分を振り返ってみて欲しい。

自分がクリスチャンであるがために、クリスチャンではない方から「キリスト教の人はこうこういう人だ。」となにかの先入観を持たれていて、誤解されているということがあるだろうか?
 
あるいは、クリスチャン同志でも、自分の過去を知る方が、こういう人間だというレッテルを貼られていて、その方とは、うまく話しができずにいるという方がおられるのではないだろうか?

いや、上の場合の逆のようなことがあるのではないだろうか? つまり、だれかのことを、先入観を持って見てしまっていて、本当にその方のことを理解できていないということがあるのではないだろうか? 

複雑な人間関係があり、どなたにも、人間関係でうまく行かない経験を持っていると思う。   

ごめんなさい。 どうか両手を離して、ご自分の人間関係のなやみを、どうか横においていただきたい。


キリストも人間関係でうまく行かなかった:

人間となられたイエスも人間関係でとても悩まれたのだろうと思う。 

今日与えられている、福音書の状況を簡単にお話したい。
  
30歳になったイエスはガリラヤで奇跡的に病人を治癒されたりした後、地元のナザレに短い期間戻られた。 30歳になったイエスは通い慣れたユダヤ教の会堂に姿を現された。
 
その会堂で、イザヤ書から、「私がこの世に来たのは、貧しい者、捕らわれている者、目の見えない者、圧迫されている者を解放するためにやってきた。」という箇所を読まれた。
 
このイザヤ書の言葉を読んだあと、「今日、この言葉が実現した。」とイエスがおっしゃった。
  
その言葉はとても力強く、その言葉の影には、イエスがはじめて、救い主であるということを宣言されていたといってもよい。
 
しかし、イエスの幼少年時代を知るナザレの人々は、「なんで大工ヨセフの息子が、そんなことはありえない。」といぶかしげになる。
 
結局、ナザレの人々は、イエスに怒りを覚え、崖から突き落として殺そうとする。
 
でも、イエスキリストは、足が速かったのかその場をすり抜けて、ナザレの人々だけに殺されるということはなかった。 

ここまでが今日の聖書の内容。  


その後のイエス:

さて、ここで質問したい。 イエスが受け入れられなかったのは、ナザレにおいてだけだっただろうか?
 
イエスは各地でいろいろな奇跡を起こされ、病人を治し、とんでもない数の人々に食事を与えたりもした。
 
そのような病気からの回復や、奇跡的なワイン製造とか、あるいは5000人の給食は、人々から歓迎され、好まれ、受け入れられた。

しかし、このような奇跡を起こすことは、神がイエスという人となってこの世に来られた究極的な目的ではなかった。
 
その目的は、イエス自身が命のパンであり、それを食する者には永遠の命が与えられ、神はそのパンを食する者の中にいてくださる。 また、人々も神の中にあって一つである。 このことを全人類に理解して欲しかったといえる。 

人々にとって実利のある奇跡を起こされる限り、イエスを信じた人々であったが、そのようなイエスの話しを聞いた途端、多くの人々が、そんな話は聞いていられないといってイエスから離れて行った。
 
つまりイエスは理解さていなかった。ナザレだけで理解されなかったわけではなく、ガリラヤでもエルサレムでも、そのイエスが究極的に言わんとしたことは、理解されなかった。
  

イエスの反応: 

しかし、イエスは人々から理解されなくても、忍耐強くご自分を徹底的に低くされた。 

挙句の果てには、ユダヤ人たちと異邦人もいっしょになって、抵抗しない子羊のようなイエスを十字架にかけるという行為に対し、イエスはただ従った。 そして、確かに十字架に架かる。

その十字架に架かって死なれるという行為は、イエスを受け入れずイエスを十字架に架ける者たち、それは、ナザレの人々であり、ユダヤの人々であり、そして、それに加担した異邦人、逃げていってしまった弟子たちを含めて、すべてを赦す、そういう愛の結果だった。
 
なぜなら、イエスは死んで終わらなかった。 復活するのだ。 復活して、イエスの十字架を防ぐこともせず逃げていってしまった弟子たちに顕れ、そして赦された。

  
私たちの対応: 

今日のメッセージは、私たちが普段、人間関係で悩む現実があるという話から始まった。
 
イエスも、究極的な神の意志、真理を伝えようとしましたが、理解されず、人間関係で悩んだ。そのことに対する対応は、祈り、そして徹底的に自分を低くし、人々を愛し、赦す、十字架の死と復活だった。
  
洗礼を受けたものは、十字架の死と復活に与る者。 イエスを主であると告白し、普段、聖餐にあずかる私たちは、実は、イエスの愛を表す僕となっている。
 
なぜなら、イエスは、「わたしは命のパンである。私のパンを食するものは永遠の命を賜る。」と宣言され、そして、「イエスを主と信じるもののなかに、私は居る。」とおっしゃっていたから。

私たちの好むと好まないにかかわらず、愛の固まりのようなイエスの愛が、私たちに入ってきている。 

人間関係が難しくなってしまって、どんなに誤解され虐げられようが、自分を徹底的に低くし私たちの中に入ってきているイエスの愛を介して、人間関係の回復、復活に希望が持てる。


イエスの愛を端的に表している言葉が、本日の第二日課、第一コリント13章。 この中で「愛」と出てくる言葉は、それをイエスに置き換えて読むこともできる。 4節から7節に出てくる「愛」を「イエス」に変えて読んでみる。 
 
イエスは忍耐強い。イエスは情け深い。ねたまない。イエスは自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
  
さらに、「愛」という言葉は、それぞれ、みなさんのお名前に変えて読んでいただいても良い。 どうか、ここで、みなさんが、以下の○○となっているところに、御自分の名前を入れて読んでいただきたい。

○○は忍耐強い。○○は情け深い。ねたまない。○○は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

アーメン


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