聖霊降臨後第4主日礼拝説教「父の愛」”Father's Love"岸野豊牧師
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投稿日時 2010-7-2 23:12 | 最終変更
admin004
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2010年6月20日
創世記 2:1-14、サムエル記下 18;1-33
「父の愛」 “Father’s Love”
私たちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン
今日は父の日です。父の日とか母の日は家族で一緒に祝えるのが最高の喜びと思います。安達さん一家、このように日本からの家族も揃ってこの日を過ごせるのは素晴らしいことであると思います。
さて今日は、聖書の中で有名な、又、皆さんが良く知っている旧約聖書の中から二人の男、アブラハムとその息子、イサクとダビデ王とその息子、アブサロムについて話してみたいと思います。
さてその前に何時もこう思うのですが、皆さんの中で、娘さんのいる人いますよね。私もケーテイという娘がいます。25歳でもうすぐボストンからSpeach Therapist になる資格を取ってカリホルニアに帰って来ます。その3年間家内と娘は、毎日少なくとも1時間は電話で話しをしています。学校の授業の事、友達との付き合いのこと、特にボーイフレンドのことなんか、私にも興味が無いわけではありませんが、娘と母親には共通する話の中身があるわけですね。私の息子が大学に行っている間、電話で話しますが、其の会話の長さは家内と娘の話す百分の1ぐらいの時間で終わります。“How are you doing Andrew?” “OK.” “How is your class work?” “OK.” “Are you keeping up your work?” “Yeah.” “OK, I love you.” “I love you, too.” 男の電話の話とは、こんなものです。
しかし言葉数は少なくとも母と娘の愛情と同じく、父と息子の関係も深い絆で結ばれているのです。私の父は2年前くも膜下出血で頭の手術をして以来、もう2年間、特別病院でおなかにチュウブで直接栄養剤を入れられてかろうじて生きているのですが、その父のこと、とくに子どもだったころ、いっしょに後楽園に野球を見に行ったこと、自転車に一人で乗れるように助けてもらったこと、そして、毎年夏に父の会社の持っていた箱根、山中湖の山荘で一緒にワカサギ釣りをしたのを良く思い出します。この9月に1週間にわたって父と母の様子を見に訪問しますが、父はこのごろ肺炎を何回か起こしているので、もしかしたら今すぐにでも電話で帰ってきなさいとの連絡があるかもしれません。
今日の説教は聖書の中で有名なアブラハムとその息子イサクの話と、ダビデ王と数多くいた息子たちの中で、とくにアブサロムという息子の関係を聞いて欲しいのです。皆さんの良く知っている話ですが、アブラハムは年をとってから、奥さんとの間にイサクという男の子が与えられました。イシマエルという奥さんの女中との間にできた男の子もいたわけですが神様との約束によって90歳になったサラとの間に生まれてきたイサクを特にかわいがったのです。ところが或る日、神様からこういう言葉をかけられました。 「アブラハムよ、貴方の息子、あなたの愛するイサクを連れてモリヤの地に行きなさい。私が命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くすささげものとしてささげなさい。」其の神様の声を聞いてアブラハムはどのように思ったでしょう?百歳になってやっとできたこの息子を焼き尽くす捧げ物としてささげるとは冗談ではない、ひどいことを言う神様だ。神様は私に、私の子孫は夜空に輝く星のように数多く、また海辺の砂の数のように多くなるだろうと言ったばかりではなかったか。アブラハムは神様を相手に言い争ったのです。もし神様があなたの夢の中に現れて、あなたの子どもを私のために犠牲にしてくれと言われたら、どんな思いになるでしょう。それが朝起きたとき、夢だったんだ、ああ良かったと思えたら心の重荷が消えるかもしれない。
22章6節からの所を読んでみましょう。「アブラハムは焼尽くす捧げ物に用いる薪を取って息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった。イサクは父アブラハムに「私のお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。私の子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はありますが、焼き尽くす捧げ物にする子羊はどこにいるんですか?」「私の子よ、焼き尽くすささげものの子羊は、きっと神様が備えてくださる。」 二人は一緒に歩いていった。神の命じた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
聖書には書いてありませんが、その時イサクはどう思ったでしょう? お父さん、何故私を薪の上に乗せたのですか? 私が神様のいう子羊なのですか?
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主のみ使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」とみ使い言った。「その子に手を下すな。何をしてはならない。あなたが神を恐れるものであることが、今分かったからだ。自分の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると後の木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くすものとして捧げた。ここでの聖書の言いたいことは何でしょう? 何事においても神様を疑ってはいけませんと言うことでしょうか?神様への信仰を持つと言うことは、神様の言われるとおりの行動をしなさいと言うことですか? それは、どんな状況の中にあっても、私たちがいつも神様を信頼して生きてゆく、主の言われたすべてのことを守ってゆく、それが信仰だと言うのでしょうか?聖書を読んで、これはひどい神様だ。なんてひどいことを言う。神様への信仰とはただ神様の言われることを「鵜呑み」にしてそのとおりやるということですか? それだったら私たちはロボットのようなものではありませんかと感じる方もあると思います。
神様、貴方は私たちに何時もしたがって生きてきなさいとは言いましたが、私たちは、あなたに与えられた情況を判断する理性もあるし,そんな時にはあなたを疑う思いもあるのです。神様、貴方は自分のこの命まで惜しまず、何時もあなたに従ってゆく、そんな信仰を持ってゆく人間になりなさいと言われているんですか?
私は皆さんに、牧師でもあろう人が、といわれてしまうかもしれませんが、私は神様に従ってゆくという人生の中で、すべてのことに対して神様の言うとおりに生きてきたという男ではありません。誰かから、ほっぺたをぴシャンとたたかれた時、その反対のほっぺたもどうぞたたいてくださいなんて云ったこともないし、神様のもとで すべての人は兄弟、姉妹ですから、皆さんに親切にしなさい、また、愛し合いなさいと言われているにもかかわらず、「あいつ俺大嫌い」。と言ったこともあるし、心の中で神様とレスリングしたこともあるんです。レスリングして神様に勝ったことはありません。神様を負かしてやるとおもった事もありません。しかし私は何時も神様の言われるとおりの行動がしたくてもできない、そんな時を人生でたくさん経験しました。牧師であっても、100点が満点であっつたら、自分の人生は何時も30点ぐらいの男であると感じています。それでも私は、自分の弱さ、欠点を知っているからこそ神様により頼むのです。人生の中で悩んだことの無い人、人生の苦しみと悲しみを経験したことの無い人、時には “I don’t understand you, God” と叫んだことの無い人は反対に、神様から愛されている、神様は私を宝物のように見守ってくださっていると言う聖霊による心の支えを感じることができません。
さて今日の説教の中で、もう一つ私たちの父なる神が、いかに私たちを愛してくださっている神様であることを、ダビデ王とその一人の息子であるアブサロムの話で聞いてください。ダビデ王はユダヤの歴史の中で、最も素晴らしい王様であっつたと賞賛されている人物ですが、それでも罪の無い人間ではなかったのです。彼はある男の奥さん、その人の名は バトシェバ、英語では Bathsheba という人ですが、自分のものにした神様にそむいた人間です。又、イスラエルとその周りの外国との平和の関係を保ってゆくために、ユダヤ人以外の外国人の女性を奥さんとして数多く持っていた男です。腹違いの息子たちも数多くいました。その腹違いの息子たちは、誰がダビデ王の跡継ぎになるかという戦国時代の大名の息子たちのように野心にかられた思いの中で、私こそイスラエル王朝の跡継ぎとの野望を持っていました。アブサロムは自分の父の敵になりました。彼が武力で父ダビデ王の位を取ろうとしていたからです。しかし、ダビデ王は、自分に反逆したアブサロムを父の愛をもって愛していたのです。戦いが始まりましたが、ダビデ王、側近の者にアブサロムを害してはいけないと命令していたのです。ところが、アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はラバに乗っていましたが、ラバが樫の大木の絡まりあった枝の下を通ったので、頭がその木に引っかかり、彼は天と地の間に宙ぶらりんになったのです。乗っていたロバはそこをそのまま通りすごしてしまったのです。
木に引っかかった、宙ぶらりんになっていたアブサロムをダビデ王の側近は三つの槍で心臓を突き刺して殺してしまったのです。そのニュースを聞いたダビデ王、顔を覆い、大声で叫び泣いたのです。「私の息子アブサロム、アブサロム、私の息子、わたしの息子よ」 と。このダビデ王、この敵となった自分の息子を心から愛していたのです。それは不思議な事ではありません。人間として、自分の子ども、自分の息子、自分の娘を愛する人間は、その子どもたちがどんなものであっても神様が私たちを愛してくださっているのと同じように愛するのです。どんな人間となった、自分の敵になった子どもでさえ、私たちは愛することをやめません。同じように、神様は私たちを、何時も、何時も、何時も、何時も愛してくださっいるのです。それはあなた方一人、一人が神様の掛け替えのない息子、娘であるからです。私たちはその愛を示してくださった神様に感謝し、私たちも神様からいただいた愛の心を皆さんに示してゆく、それがキリスト教の教えです。Happy father’s day! アーメン.
創世記 2:1-14、サムエル記下 18;1-33
「父の愛」 “Father’s Love”
私たちの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。アーメン
今日は父の日です。父の日とか母の日は家族で一緒に祝えるのが最高の喜びと思います。安達さん一家、このように日本からの家族も揃ってこの日を過ごせるのは素晴らしいことであると思います。
さて今日は、聖書の中で有名な、又、皆さんが良く知っている旧約聖書の中から二人の男、アブラハムとその息子、イサクとダビデ王とその息子、アブサロムについて話してみたいと思います。
さてその前に何時もこう思うのですが、皆さんの中で、娘さんのいる人いますよね。私もケーテイという娘がいます。25歳でもうすぐボストンからSpeach Therapist になる資格を取ってカリホルニアに帰って来ます。その3年間家内と娘は、毎日少なくとも1時間は電話で話しをしています。学校の授業の事、友達との付き合いのこと、特にボーイフレンドのことなんか、私にも興味が無いわけではありませんが、娘と母親には共通する話の中身があるわけですね。私の息子が大学に行っている間、電話で話しますが、其の会話の長さは家内と娘の話す百分の1ぐらいの時間で終わります。“How are you doing Andrew?” “OK.” “How is your class work?” “OK.” “Are you keeping up your work?” “Yeah.” “OK, I love you.” “I love you, too.” 男の電話の話とは、こんなものです。
しかし言葉数は少なくとも母と娘の愛情と同じく、父と息子の関係も深い絆で結ばれているのです。私の父は2年前くも膜下出血で頭の手術をして以来、もう2年間、特別病院でおなかにチュウブで直接栄養剤を入れられてかろうじて生きているのですが、その父のこと、とくに子どもだったころ、いっしょに後楽園に野球を見に行ったこと、自転車に一人で乗れるように助けてもらったこと、そして、毎年夏に父の会社の持っていた箱根、山中湖の山荘で一緒にワカサギ釣りをしたのを良く思い出します。この9月に1週間にわたって父と母の様子を見に訪問しますが、父はこのごろ肺炎を何回か起こしているので、もしかしたら今すぐにでも電話で帰ってきなさいとの連絡があるかもしれません。
今日の説教は聖書の中で有名なアブラハムとその息子イサクの話と、ダビデ王と数多くいた息子たちの中で、とくにアブサロムという息子の関係を聞いて欲しいのです。皆さんの良く知っている話ですが、アブラハムは年をとってから、奥さんとの間にイサクという男の子が与えられました。イシマエルという奥さんの女中との間にできた男の子もいたわけですが神様との約束によって90歳になったサラとの間に生まれてきたイサクを特にかわいがったのです。ところが或る日、神様からこういう言葉をかけられました。 「アブラハムよ、貴方の息子、あなたの愛するイサクを連れてモリヤの地に行きなさい。私が命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くすささげものとしてささげなさい。」其の神様の声を聞いてアブラハムはどのように思ったでしょう?百歳になってやっとできたこの息子を焼き尽くす捧げ物としてささげるとは冗談ではない、ひどいことを言う神様だ。神様は私に、私の子孫は夜空に輝く星のように数多く、また海辺の砂の数のように多くなるだろうと言ったばかりではなかったか。アブラハムは神様を相手に言い争ったのです。もし神様があなたの夢の中に現れて、あなたの子どもを私のために犠牲にしてくれと言われたら、どんな思いになるでしょう。それが朝起きたとき、夢だったんだ、ああ良かったと思えたら心の重荷が消えるかもしれない。
22章6節からの所を読んでみましょう。「アブラハムは焼尽くす捧げ物に用いる薪を取って息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった。イサクは父アブラハムに「私のお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。私の子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はありますが、焼き尽くす捧げ物にする子羊はどこにいるんですか?」「私の子よ、焼き尽くすささげものの子羊は、きっと神様が備えてくださる。」 二人は一緒に歩いていった。神の命じた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
聖書には書いてありませんが、その時イサクはどう思ったでしょう? お父さん、何故私を薪の上に乗せたのですか? 私が神様のいう子羊なのですか?
そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。その時、天から主のみ使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」とみ使い言った。「その子に手を下すな。何をしてはならない。あなたが神を恐れるものであることが、今分かったからだ。自分の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると後の木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くすものとして捧げた。ここでの聖書の言いたいことは何でしょう? 何事においても神様を疑ってはいけませんと言うことでしょうか?神様への信仰を持つと言うことは、神様の言われるとおりの行動をしなさいと言うことですか? それは、どんな状況の中にあっても、私たちがいつも神様を信頼して生きてゆく、主の言われたすべてのことを守ってゆく、それが信仰だと言うのでしょうか?聖書を読んで、これはひどい神様だ。なんてひどいことを言う。神様への信仰とはただ神様の言われることを「鵜呑み」にしてそのとおりやるということですか? それだったら私たちはロボットのようなものではありませんかと感じる方もあると思います。
神様、貴方は私たちに何時もしたがって生きてきなさいとは言いましたが、私たちは、あなたに与えられた情況を判断する理性もあるし,そんな時にはあなたを疑う思いもあるのです。神様、貴方は自分のこの命まで惜しまず、何時もあなたに従ってゆく、そんな信仰を持ってゆく人間になりなさいと言われているんですか?
私は皆さんに、牧師でもあろう人が、といわれてしまうかもしれませんが、私は神様に従ってゆくという人生の中で、すべてのことに対して神様の言うとおりに生きてきたという男ではありません。誰かから、ほっぺたをぴシャンとたたかれた時、その反対のほっぺたもどうぞたたいてくださいなんて云ったこともないし、神様のもとで すべての人は兄弟、姉妹ですから、皆さんに親切にしなさい、また、愛し合いなさいと言われているにもかかわらず、「あいつ俺大嫌い」。と言ったこともあるし、心の中で神様とレスリングしたこともあるんです。レスリングして神様に勝ったことはありません。神様を負かしてやるとおもった事もありません。しかし私は何時も神様の言われるとおりの行動がしたくてもできない、そんな時を人生でたくさん経験しました。牧師であっても、100点が満点であっつたら、自分の人生は何時も30点ぐらいの男であると感じています。それでも私は、自分の弱さ、欠点を知っているからこそ神様により頼むのです。人生の中で悩んだことの無い人、人生の苦しみと悲しみを経験したことの無い人、時には “I don’t understand you, God” と叫んだことの無い人は反対に、神様から愛されている、神様は私を宝物のように見守ってくださっていると言う聖霊による心の支えを感じることができません。
さて今日の説教の中で、もう一つ私たちの父なる神が、いかに私たちを愛してくださっている神様であることを、ダビデ王とその一人の息子であるアブサロムの話で聞いてください。ダビデ王はユダヤの歴史の中で、最も素晴らしい王様であっつたと賞賛されている人物ですが、それでも罪の無い人間ではなかったのです。彼はある男の奥さん、その人の名は バトシェバ、英語では Bathsheba という人ですが、自分のものにした神様にそむいた人間です。又、イスラエルとその周りの外国との平和の関係を保ってゆくために、ユダヤ人以外の外国人の女性を奥さんとして数多く持っていた男です。腹違いの息子たちも数多くいました。その腹違いの息子たちは、誰がダビデ王の跡継ぎになるかという戦国時代の大名の息子たちのように野心にかられた思いの中で、私こそイスラエル王朝の跡継ぎとの野望を持っていました。アブサロムは自分の父の敵になりました。彼が武力で父ダビデ王の位を取ろうとしていたからです。しかし、ダビデ王は、自分に反逆したアブサロムを父の愛をもって愛していたのです。戦いが始まりましたが、ダビデ王、側近の者にアブサロムを害してはいけないと命令していたのです。ところが、アブサロムがダビデの家臣に出会ったとき、彼はラバに乗っていましたが、ラバが樫の大木の絡まりあった枝の下を通ったので、頭がその木に引っかかり、彼は天と地の間に宙ぶらりんになったのです。乗っていたロバはそこをそのまま通りすごしてしまったのです。
木に引っかかった、宙ぶらりんになっていたアブサロムをダビデ王の側近は三つの槍で心臓を突き刺して殺してしまったのです。そのニュースを聞いたダビデ王、顔を覆い、大声で叫び泣いたのです。「私の息子アブサロム、アブサロム、私の息子、わたしの息子よ」 と。このダビデ王、この敵となった自分の息子を心から愛していたのです。それは不思議な事ではありません。人間として、自分の子ども、自分の息子、自分の娘を愛する人間は、その子どもたちがどんなものであっても神様が私たちを愛してくださっているのと同じように愛するのです。どんな人間となった、自分の敵になった子どもでさえ、私たちは愛することをやめません。同じように、神様は私たちを、何時も、何時も、何時も、何時も愛してくださっいるのです。それはあなた方一人、一人が神様の掛け替えのない息子、娘であるからです。私たちはその愛を示してくださった神様に感謝し、私たちも神様からいただいた愛の心を皆さんに示してゆく、それがキリスト教の教えです。Happy father’s day! アーメン.
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(admin004, 2010-7-2 23:12)