2010年7月11日聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝説教「良きサマリヤ人」”Good Samaritan"岸野豊牧師
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投稿日時 2010-7-14 10:35 | 最終変更
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居住地: Irvine, CA
投稿数: 291
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聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝
ヨハネによる福音書 10章25-37節
「良きサマリヤ人」 “Good Samaritan”
私たちの父なる神から恵みと平和があなた方の上にあるように。アーメン。
ペンシルベニアの神学校でまだ勉強していた時、一人の教授から薦められた本があります。それは “Blessing” というタイトルの本で、その本の主人公は Mary Craig という人です。その本の内容を紹介しましょう。
1956年メリーとご主人のフランクさんは若いカップルでよい仕事についていました.イギリスのダービーと言う都市で幸福な生活を送っていました。二人には一才になる男の赤ちゃんがいて皆からモデルファミリーですねと言われていたのです。彼らの生活は本当に誰から見ても素晴らしいものだったのです。メリーとフランク、もし人生に苦しみとか、悲しみがあるとしたら、それは他の誰かに、自分たちには関係ないものと思っていたのです。二人目の男の赤ちゃんが生まれ、その子にポールクリストファーと言う名前をつけました。メリーが生まれてすぐにこの子の顔を見た時、何か普通の子と違う、かわいいと言うより、少し人離れしている顔と何か心配な心にかられたのです。ポールは普通の子が話し出す時にまだ一日中泣いていたのです。ニコニコと笑うことも無い。その反対に動物のような声で叫ぶと言う母親にとってはとても心苦しかったのです。二年間この子を連れて外に出ることもなかったのです。
お医者さんにポールの診断をしてもらい、それがHohler’s syndrome という精神薄弱の病気であることが分かりました。専門のお医者さんにかかりました。色々な薬も試してみました。Faith Healer にも行きました。しかしそれらは何ひとつポールの状態を変えることができなかったのです。メリーとフランクは家から出ることの無い日がつづいたのです。ある日、夜になってメリーは自分の属していた教会に行き、そこで1人で涙を流しながら嘆きの言葉を神様に投げかけたのです。「神様、あなたは本当は存在しないんですね。もし存在しているとしても私はあなたが大嫌い。」 メリー クレッグは本当に自分は道端の溝にはまって、もう心も体も動けない。誰にも助けられないで、このまま死んでしまうという妄想に駆られたのです。
さて今日の福音書で、イエス様が強盗に襲われて、心も体も道端の溝にはまって生死の間をさまよっていたこの旅人のことを話しているのです。メリー クレッグとこの旅人、舞台こそ違いますが、心も体も痛めて、死と生の間をさまよっていた状況であったことは同じです。イエスさまの話されたこのGood Samaritanの話は放蕩息子と父の話と同様に、有名な譬え話です。
イエス様がこの地上で伝道していた一世紀のイスラエルの地では、このような追いはぎ、強盗の話は良くあったことでした。この聖書の中で書かれている道とは、当時は血の道路として知られていたのです。特にエルサレムからエリコに至る道は険しい山の道で、強盗が一人歩きをしている人をよく攻撃した所でした。この話の中で半殺しになった旅人のこと、その人の名前、何処の国の人、又どんな職業についていた人であっつたかわかりません。わかっているのは、彼が強盗に会い、体を傷つけられ、持っていたものを奪われて、道端の溝に放り込まれていたということだけです。メリー クレッグさんと同じように、人生の中で傷ついた人でした。彼がどんな人であったかとは、そんなに問題ではありません。本当のことを言うならば、人生の中で私たち一人ひとりも体も精神も傷つけられて生きている人間です。
人間は皆、どんなに裕福な家族に生まれたにしろ、どんな学問の位を持っているにしろ、有名人であっても、そうでなくても、人生で苦しんだ経験をしたことの無い人なんていないはずです。そんな苦しい、悲しみの中、神様どうか私を憐れんでください、助けてください、命を救ってくださいと言ったことのない人はいません。
イエス様の多くの譬え話と同じように、この話も英語で言うtwo-edge swordの話です。一方に人生の判決の時、あたかもこれですべてが終わってしまうと言う悲しい時があるのですが、その一方、この良きサマリヤ人の譬え話は強盗にあって死にかけていた者にとって、生きてゆく希望をすべての人に与えてくださっているのです。
二週間前に私は父を失いました。悲しかったけれど、父は神様のもとにいるんだと思うと、今ではあの空のかなたから、きっと私のこと、私の家族のこと、そして痴呆、アルツハイマーで、自分が今何処にいるかも分からない、私の顔を見て、「私あなたを知ってる。でも貴方の名前が出てこない」なんて言っている母を父は天国から神様と一緒に見守っていてくれるんだなあと思い心の軽くなる時もあります。
「誰が私たちの良きサマリヤ人ですか?」と誰かに今聞かれたら、私は今こうはっきり言います。「私たちの信仰の群れこそ、サマリヤ人の団体ですよ」と。教会の一人びとりは自分の信仰、自分の幸福を追求するところであっていいのです。しかし、1人の礼拝出席者というより、このイエス・キリストに従う群れの1人としての信仰を持った私たちは、私たちの群れの一人ひとりを大切にしてゆきたい信仰の仲間です。私たち、決して「私は良きサマリヤ人」なんていえませんが、私たちは良きサマリヤ人となれるよう、神様の愛に触れ、その愛に触れることがあるからこそ、自分だけのことでなく、他人の為に私の祈りを、私の愛を分け合って生きてゆきたいと言う人間になれるのです。人間が、人間として生きてゆく過程の中で、一番必要としているものは何かと言うと、それは、その人が言いたいことを聞いてくださる人。心の奥底から話せる人がほしいと言うことです。特に、病気や死に迫られた時、結婚生活がうまく行かない時、人生が苦しい時、心の重荷がある時、自分の重い心を話すことのできる人があると言うことは幸いです。それは心理学者とかPsychiatrist でなくてもいい、私たちを心から受け入れ てくださり、何も答えを与えてくれなくてもいい。ただ単に私たちの心の思いを分かち合えることのできる人、聞いてくれる人、そういう人を私たちは必要としているのです。
ところで、良きサマリヤ人の譬え話は、私たちに来る助けが思いもしなかった所から来る、思いもかけなかった人たちから来るということを語っています。
一つの例を次の話で聞いてください。ある年寄りのカップルがロンドンを旅行中のことでした。或る日、ロンドン全体が、深い霧に包まれて、もう何も見えません。何処に何があるかも分からないのです。さて、どうやってホテルに帰ろうかと途方にくれていた時、見知らぬ男の人が現れて、彼は、「私はこのあたりのこと良く知っている。若しよかったら、行き先のホテルまで、ガイドしてあげましょうと言ってくれたのです。ホテルについて、やっと気が着いたことは、この男の人、盲人、目の見えない人だったのです。彼こそこのカップルにとっては良きサマリヤ人だったのです。ここで知って欲しいことは、私たちが必要とする良きサマリヤ人は、人生の中で、思いもかけなかった人でもあると言うことです。
考えてみれば、イエスさまこそ良きサマリヤ人ではなかったでしょうか?あの大工の息子、ナザレの男、そんなごく普通の男が30年、長血の病気の女、売春婦と呼ばれていた、世間から嫌われていた女、徴税人としてユダヤ人に一番嫌われていた男、そういう人たちに近ずき、「救いが今日あなた方のところに来た」と言われたのです。罪人の所に行って、その罪人を彼の友と呼んだイエス様、人生の悩み、悲しみの中で泣いている私たちのところに来て、私たちの涙をぬぐってくださる方、そうです、イエス様こそ私たちにとって大切な良きサマリヤ人なのです。この良きサマリヤ人の譬え話は私たちに問いかけているのです。
英語で言うとそれは、"Are you willing to accept this help that comes in a surprising way?” です。
詩篇46章一節にこう書いてあります。「神は私たちの避けどころ、私たちの砦、苦難の時必ずそこにいまして助けて下さる。」 英語では “God is our refuge and strength, a very present help in trouble.” です。
サマリヤ人は傷ついた男に哀れみを抱き、彼のすべてを尽くして隣人であるこの男を大切にしたのです。私たちも同じように、お互いを大切にしましょう。独りぼっちにならないで、人間の群れの中、この教会の礼拝の中、祈りの会の中に出てきてください。その中に神様が常に私たちと共にいて、いつも私たちを助けてくださっている、愛して下さっていることをいつも覚えてください。
もう一度、詩篇46章一節を古い訳の聖書で読んでみます。「神は我らの避けどころ、又、力である。悩める時のいと近き助けである。」アーメン
ヨハネによる福音書 10章25-37節
「良きサマリヤ人」 “Good Samaritan”
私たちの父なる神から恵みと平和があなた方の上にあるように。アーメン。
ペンシルベニアの神学校でまだ勉強していた時、一人の教授から薦められた本があります。それは “Blessing” というタイトルの本で、その本の主人公は Mary Craig という人です。その本の内容を紹介しましょう。
1956年メリーとご主人のフランクさんは若いカップルでよい仕事についていました.イギリスのダービーと言う都市で幸福な生活を送っていました。二人には一才になる男の赤ちゃんがいて皆からモデルファミリーですねと言われていたのです。彼らの生活は本当に誰から見ても素晴らしいものだったのです。メリーとフランク、もし人生に苦しみとか、悲しみがあるとしたら、それは他の誰かに、自分たちには関係ないものと思っていたのです。二人目の男の赤ちゃんが生まれ、その子にポールクリストファーと言う名前をつけました。メリーが生まれてすぐにこの子の顔を見た時、何か普通の子と違う、かわいいと言うより、少し人離れしている顔と何か心配な心にかられたのです。ポールは普通の子が話し出す時にまだ一日中泣いていたのです。ニコニコと笑うことも無い。その反対に動物のような声で叫ぶと言う母親にとってはとても心苦しかったのです。二年間この子を連れて外に出ることもなかったのです。
お医者さんにポールの診断をしてもらい、それがHohler’s syndrome という精神薄弱の病気であることが分かりました。専門のお医者さんにかかりました。色々な薬も試してみました。Faith Healer にも行きました。しかしそれらは何ひとつポールの状態を変えることができなかったのです。メリーとフランクは家から出ることの無い日がつづいたのです。ある日、夜になってメリーは自分の属していた教会に行き、そこで1人で涙を流しながら嘆きの言葉を神様に投げかけたのです。「神様、あなたは本当は存在しないんですね。もし存在しているとしても私はあなたが大嫌い。」 メリー クレッグは本当に自分は道端の溝にはまって、もう心も体も動けない。誰にも助けられないで、このまま死んでしまうという妄想に駆られたのです。
さて今日の福音書で、イエス様が強盗に襲われて、心も体も道端の溝にはまって生死の間をさまよっていたこの旅人のことを話しているのです。メリー クレッグとこの旅人、舞台こそ違いますが、心も体も痛めて、死と生の間をさまよっていた状況であったことは同じです。イエスさまの話されたこのGood Samaritanの話は放蕩息子と父の話と同様に、有名な譬え話です。
イエス様がこの地上で伝道していた一世紀のイスラエルの地では、このような追いはぎ、強盗の話は良くあったことでした。この聖書の中で書かれている道とは、当時は血の道路として知られていたのです。特にエルサレムからエリコに至る道は険しい山の道で、強盗が一人歩きをしている人をよく攻撃した所でした。この話の中で半殺しになった旅人のこと、その人の名前、何処の国の人、又どんな職業についていた人であっつたかわかりません。わかっているのは、彼が強盗に会い、体を傷つけられ、持っていたものを奪われて、道端の溝に放り込まれていたということだけです。メリー クレッグさんと同じように、人生の中で傷ついた人でした。彼がどんな人であったかとは、そんなに問題ではありません。本当のことを言うならば、人生の中で私たち一人ひとりも体も精神も傷つけられて生きている人間です。
人間は皆、どんなに裕福な家族に生まれたにしろ、どんな学問の位を持っているにしろ、有名人であっても、そうでなくても、人生で苦しんだ経験をしたことの無い人なんていないはずです。そんな苦しい、悲しみの中、神様どうか私を憐れんでください、助けてください、命を救ってくださいと言ったことのない人はいません。
イエス様の多くの譬え話と同じように、この話も英語で言うtwo-edge swordの話です。一方に人生の判決の時、あたかもこれですべてが終わってしまうと言う悲しい時があるのですが、その一方、この良きサマリヤ人の譬え話は強盗にあって死にかけていた者にとって、生きてゆく希望をすべての人に与えてくださっているのです。
二週間前に私は父を失いました。悲しかったけれど、父は神様のもとにいるんだと思うと、今ではあの空のかなたから、きっと私のこと、私の家族のこと、そして痴呆、アルツハイマーで、自分が今何処にいるかも分からない、私の顔を見て、「私あなたを知ってる。でも貴方の名前が出てこない」なんて言っている母を父は天国から神様と一緒に見守っていてくれるんだなあと思い心の軽くなる時もあります。
「誰が私たちの良きサマリヤ人ですか?」と誰かに今聞かれたら、私は今こうはっきり言います。「私たちの信仰の群れこそ、サマリヤ人の団体ですよ」と。教会の一人びとりは自分の信仰、自分の幸福を追求するところであっていいのです。しかし、1人の礼拝出席者というより、このイエス・キリストに従う群れの1人としての信仰を持った私たちは、私たちの群れの一人ひとりを大切にしてゆきたい信仰の仲間です。私たち、決して「私は良きサマリヤ人」なんていえませんが、私たちは良きサマリヤ人となれるよう、神様の愛に触れ、その愛に触れることがあるからこそ、自分だけのことでなく、他人の為に私の祈りを、私の愛を分け合って生きてゆきたいと言う人間になれるのです。人間が、人間として生きてゆく過程の中で、一番必要としているものは何かと言うと、それは、その人が言いたいことを聞いてくださる人。心の奥底から話せる人がほしいと言うことです。特に、病気や死に迫られた時、結婚生活がうまく行かない時、人生が苦しい時、心の重荷がある時、自分の重い心を話すことのできる人があると言うことは幸いです。それは心理学者とかPsychiatrist でなくてもいい、私たちを心から受け入れ てくださり、何も答えを与えてくれなくてもいい。ただ単に私たちの心の思いを分かち合えることのできる人、聞いてくれる人、そういう人を私たちは必要としているのです。
ところで、良きサマリヤ人の譬え話は、私たちに来る助けが思いもしなかった所から来る、思いもかけなかった人たちから来るということを語っています。
一つの例を次の話で聞いてください。ある年寄りのカップルがロンドンを旅行中のことでした。或る日、ロンドン全体が、深い霧に包まれて、もう何も見えません。何処に何があるかも分からないのです。さて、どうやってホテルに帰ろうかと途方にくれていた時、見知らぬ男の人が現れて、彼は、「私はこのあたりのこと良く知っている。若しよかったら、行き先のホテルまで、ガイドしてあげましょうと言ってくれたのです。ホテルについて、やっと気が着いたことは、この男の人、盲人、目の見えない人だったのです。彼こそこのカップルにとっては良きサマリヤ人だったのです。ここで知って欲しいことは、私たちが必要とする良きサマリヤ人は、人生の中で、思いもかけなかった人でもあると言うことです。
考えてみれば、イエスさまこそ良きサマリヤ人ではなかったでしょうか?あの大工の息子、ナザレの男、そんなごく普通の男が30年、長血の病気の女、売春婦と呼ばれていた、世間から嫌われていた女、徴税人としてユダヤ人に一番嫌われていた男、そういう人たちに近ずき、「救いが今日あなた方のところに来た」と言われたのです。罪人の所に行って、その罪人を彼の友と呼んだイエス様、人生の悩み、悲しみの中で泣いている私たちのところに来て、私たちの涙をぬぐってくださる方、そうです、イエス様こそ私たちにとって大切な良きサマリヤ人なのです。この良きサマリヤ人の譬え話は私たちに問いかけているのです。
英語で言うとそれは、"Are you willing to accept this help that comes in a surprising way?” です。
詩篇46章一節にこう書いてあります。「神は私たちの避けどころ、私たちの砦、苦難の時必ずそこにいまして助けて下さる。」 英語では “God is our refuge and strength, a very present help in trouble.” です。
サマリヤ人は傷ついた男に哀れみを抱き、彼のすべてを尽くして隣人であるこの男を大切にしたのです。私たちも同じように、お互いを大切にしましょう。独りぼっちにならないで、人間の群れの中、この教会の礼拝の中、祈りの会の中に出てきてください。その中に神様が常に私たちと共にいて、いつも私たちを助けてくださっている、愛して下さっていることをいつも覚えてください。
もう一度、詩篇46章一節を古い訳の聖書で読んでみます。「神は我らの避けどころ、又、力である。悩める時のいと近き助けである。」アーメン
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2010年7月11日聖霊降臨後第6主日聖餐礼拝説教「良きサマリヤ人」”Good Samaritan"岸野豊牧師
(admin002, 2010-7-14 10:35)